みんな大好き実写デビルマンを見ました。
注釈:本記事は、『ドラゴンクエスト ユアストーリー』と『ドラゴンボールEVOLUTION』をつまんないけど言われるほどじゃないかな、つまんないけどとのたまう人間が書きました。よろしくお願いします。
開始10分
私が知ってるデビルマンってこんなだっけ?と思い原作を読み直す。
確かに思った通りなんか違うのだが、流石に原作と同じ内容をやろうとするといくらなんでも古めかしいので現代的にアレンジしたのだろう、と解釈。実際、明が喧嘩に弱いことや、天涯孤独で美樹らと同居していること、親友の飛鳥了の存在など、伝えるべきところは一応伝えてきている。何故か妙に居心地の悪さを感じていたが、気のせいだと思う。
あとタブレットが再生を拒否って映像が止まった。
原作と同じく父親が死んだと言い出す飛鳥了に安堵する。教室に乱入してくるシチュエーションはさておき。
道中で事態を説明してくれるが、父の残した遺物ではなくVR機器を用いてくる。謎の改変である。まあいい、この辺の話長いからね、説明は簡潔にいかないとね。なんか家についた途端に了父がデーモンに体を乗っ取られてる旨を説明したり、父親がまだ存命でデーモンに飲み込まれる寸前って描写になってるけど、原作通りヒッピー集めてお薬キメて楽しく虐殺とかのシーン入れるのは難しいもんね、まあこの程度の改変はするよね。
たださ、これ初見の人ついていける?
原作読んでるのでまだなんとかなってるだけな気がする。あと不動明にとしての人生を捨てさせ、地獄の道を歩むことを決意させるシーンを全カットした挙句に入れたのが突如死にたくないと懇願を始める飛鳥了なのは……、シンプルに何を考えているんだ????
なにを考えているのか。親友に人としての人生を諦めさせる飛鳥了の葛藤はどこに消えたのか。急展開と薄い説明に呆然と画面を見続ける。そこに現れたのは、よくわかんねえけど襲われデビルマンと化した明の目の前に現れるデーモンと合体した飛鳥了である。あ?
ここでもう一度原作をぱらぱらめくる。確かに飛鳥了の正体はサタンだ。人の弱さを探るため、あえて記憶を封じて人として生きていただけで正体は人ではない。
だが断じてここで明かす話ではない。なにを考えているんだろう。やや展開に置いていかれ始めた私に、飛鳥了は微笑んで言った。
ハッピーバースデー、デビルマン。
あ? なに言ってんだてめえ
私の頭が思考を放棄したと同時に、タブレットが再生を拒否って映像が止まった。
VSシレーヌとVSジンメン
本作でのシレーヌ役は冨永愛、その人である。彼女は日本でもトップクラスにスタイルがいい人類だ。ランウェイを歩く彼女の姿はとにかくかっこよくて美しい。奇抜な衣装もとんでもなく濃いメイクも映えるし、魅せる。全身を使って服を美しく見せるプロ中のプロだと思う。
その彼女に着せてもなおダッセエなんだこれと言わしめたシレーヌの衣装、凄すぎんか……?
確かに原作のシレーヌはほぼ裸である。そのまま映像化はできない。パリコレのランウェイでは女性の乳房が隠さず出されることも少なくないが、少なくとも日本では、女性の乳房は人前で安易にまろび出すものではないとされている。衣装のデザインが原作からかけ離れるのはやむなしだろう。
だが、だからってスーパーモデルに着せても事故る衣装に誰がしろと言った。一説には冨永愛本人が衣装の変更を申し出たとのことらしいが、だとしてももっとマシな衣装を用意できなかったのかとしか言いようがない。
とにかくびっくりするほどダサい。助けてくれ、素材が台無しだ。
話は変わってジンメン。デビルマンに自分と関わってしまったばかりに無辜の人間を死なせてしまったと後悔や苦々しさを抱かせる悪役だ。原作では昔近所に住んでいた幼い女の子が殺されるが、本作ではクラスメイトの一人という改変がなされた。
原作では少女が明を恋人と言い、明も特に否定しないので確かにそのままでは非常にまずい。そのためか本作ではクラスメイトの一人として改変されているが、ここに関しては至極真っ当な判断だろう。当たり前だ。幼い子供特有の憧れとして描かれているのは明確にわかるが、それはそれとして普通にまずいのも確かなのだから。
とはいえジンメン戦は他と比べれば原作沿いなのも幸いしてあまり不自然なところはなく、まあ突拍子もねえなと思わなくはなかったが許容できるような気がする。
では何故わざわざ記事にしているのか。理由は簡単。異常なあっけなさとデーモン同士は争わないという意味不明の設定が生まれたからである。
あっけなさはもはや言うまでもないだろう。多分この映画を見た人間全員がそう思ったに違いない。だが、同時に視聴を終えた者ならばこうも思うだろう。尺がおかしいだけで原作は守ってたしな、と。だが、それでも設定変更に関してはなんとなく釈然としないのではないだろうか。
原作のデーモンは争いを好み同族でも躊躇いなく手にかける残忍性を持ち合わせている。とにかく野蛮で暴力が大好きなのだ。戦わずにはいられない。そんな種の本能である暴力的な衝動を調伏し、デビルマンとして戦える明の精神力の強さ。真っ直ぐさ。飛鳥了が惹かれた所以だ。そういうものがこちらに伝わる設定であり、同時にデーモンらの人とは相容れない残忍さをも感じる。
だが何故かその設定が消えた。考えれば確かになくてもいい設定だ。なくてもいい。デビルマン化の経緯自体が書き換えられた以上はほぼ無用の設定となっているし、大局へはさほど影響がない。だが、先述のように不動明という人間に厚みを持たせる意味合いがあったため、なんというかこう、微妙に釈然としなかった。
大丈夫なんだろうか、この映画。この辺りから、そんなモヤモヤとした気持ちを強く抱え始める。
なお、この間何度かタブレットが再生を拒否って映像が止まり、しばらく画面がモヤモヤしていた。
原作ではデーモンたちとの小競り合いや不良たちを従える喧嘩などの小話が続く。私の読んだ文庫版では、時間旅行のエピソードなどもここに挟まっていた。いわゆる新デビルマンというやつだ。
前者は大局に影響しないため明らかに割愛可能だし、後者も飛鳥了がなにかを秘めていると匂わせてくる意味合いはあるものの、本来なかったものなので完全に番外編的な扱いとして留められるだろう。
というわけでこの辺りは全カットされて話が進む。物語は原作の佳境に入ろうとしているのだ。映画の尺としてはまだ1/3程度が終わっただけなのだが。
ともかく、デビルマンの後半は人間の心の弱さや疑心暗鬼で殺しあう醜さが描かれており、本作もきちんとそれに向かって人々の疑心が描かれ始める。となるとなにが起こるか。
そう、我らがボブサップの登場である。
本作をして一番演技が上手いのはボブサップなどと言われているため、もはや出てくるだけで面白い。全く笑うところではないのだが、こちらの脳はミームに汚染されているため面白くて仕方がない。
そんなボブサップ扮するニュースキャスターが逐一世界情勢を教えてくれる。彼は人間たちの殺し合いが刻一刻と迫り始めていることをニュースを通じて教えてくれる役割を担っていた。これに関してはいい演出だと思う。
何せ原作では米ソの対立からの核発射という攻めた描写が出てくるのだ。1970年代当時ならまだしも、2004年時点ではもはやそのまま映像化するわけにもいくまい。というか、東西冷戦の空気感が盛り込まれたサイボーグ009などの作品でも、この辺りの描写は必ず改変が入れられているのだから、デビルマンの選択は決して間違っていない。
そういうわけで、大人の事情を匂わせつつも日本はデーモンに襲われはじめ、人の心には疑心が生まれた。魔女狩りよろしくデーモン狩りをする人々が現れ人が人を迫害し始める。原作では人体実験をぶちかます博士が出たり、飛鳥了がテレビ出演したり、残虐に人殺しする研究機関が出たりとデーモンと隣り合わせとなった人間の愚かしさや恐怖心を煽る展開がねじ込まれるが、倫理的なまずさや飛鳥了の設定変更などの影響でこの辺りもカットされている。
では代わりにどのような表現になったのか。
一般通過小林幸子と謎のKONISHIKIだ。
人間の愚かしさを表現するため、美樹のクラスメイトでいじめられっ子のミーコがデーモン化してしまい、デーモン特別法などという突然現れたクソ法律により身柄を拘束される描写が挟まる。
原作にそんなシーンはない。厳密に言えば彼女が変身して捕まるシーンはあるのだが、美樹のクラスメイトなどという設定ではないし、実のところそこそこモブである。
ともかく、半モブだったミーコはあわれ捕えられてしまうわけだが、その被害はなんと彼女の家族にも及んだ。デーモンを出したとして迫害を受け、自宅が範馬刃牙の家のような有様にされてしまったのだ。そんな刃牙ハウスと化したミーコの実家を見て呆然とする明と美樹。
何故かいきなり高級車で現れる小林幸子。
善意で迫害の実態を教えてくれた彼女は、そのまま車に乗り込み去っていった。
全くもって意味がわからなかった。
何故。その2文字に頭の中を支配されたが、聞くところによれば小林幸子氏本人も何故オファーされたのか、なんの映画に出たのかわからないまま出演したとのことなので、もはやこの答えは誰にもわからないのであろう。私は思考を放棄した。フリーザだってなんの脈絡もなくカニを食うのだ。小林幸子が突然高級車で通りがかったっておかしくない。
だが、展開は私の予想を遥かに上回っていく。デーモンと化した人々の住まう洋館が襲われた描写がそれである。おそらくそこに住んでいた人々は原作で言うところのデビルマン(=デーモンを調伏できた人間)なのだろう。あまりに突拍子もない描写なので理解に時間は要するが、原作を読んでいたのでなんとなくこの辺りは察することができた。
問題は、KONISHIKIが突然現れ撃たれて倒れたシーンである。
この場面の必要性が本気でわからない。KONISHIKIである必要もわからない。本当に何もわからない。誰か意味を教えてくれ。このままだと日本語で遊んでしまうぞ。
いや、意味はわかる。デーモンを恐れるあまり、無害な者かそうでないかも判別せず問答無用で手にかける、人間は愚かと思わせるための描写だろう。意味はわかる。ただ、何故か全く脳が理解してくれないだけだ。わからない。とにかく本当にわからない。
ただひたすら、脳が理解を拒んでいた。珍奇な映像を前に脳が処理落ちしていたのかもしれない。そんな私の脳に呼応するかのように、ボブサップが出たあたりでタブレットが再生を拒否って電源が切れ、映像が止まった。充電は70%ほど残っていた。
皆さん 戦争が始まりました
KONISHIKI登場以降の記憶は曖昧だ。異常に面白くなかったことだけは覚えている。それ以外は何も覚えていない。
ただ漠然と、ミーコらの逃走劇や明のデビルマンバレ、美樹との恋愛描写などがグダグダグダグダグダグダ流れていたような印象がある。本当にそれ以上のことは何も覚えていないのだ。
ともかく、緩急もろくにないままに人々の疑心を浴びせられ、そして戦争が始まった。実写デビルマンの話題とともに添えられる、あのボブサップである。感動した。本当に存在していたのだ。私は喜んで実況した。
その時、X(旧Twitter)が不具合を起こして一切の投稿を受け付けなくなった。
タブレットの映像も止まった。
うぁ、うわぁ、うわあー
ここまでに一切触れていなかったことがある。演技力である。誰にでも初心者の頃、不慣れな頃はあるもので、あの坂本真綾も『天空のエスカフローネ』の頃などは驚くほどに演技が初々しかった。だからそう、人には誰しもそういう時期があるのだ。あるのであまり言いたくはなかったのだが、
もうびっくりするほど明の演技が残念なのだ。
了も大概なのだが、明に比べると少ない出番や役柄も相まって多少マシに思える。運がよかったのだと思う。
ともかく、明の演技が大変に残念なのだ。特に叫びが。自分がデーモン(というかデビルマン)であることを知られた時の悲しげな叫びも、愛する美樹を失った時の叫びも、驚くほど真に迫らない。
彼が叫ぶ声はうわぁぁぁぁぁ!!!!ではない。
うわあーなのだ。
私は頭を抱えた。タブレットは再生を拒否らなかったが、映像がクソほどカクついた。
原作デビルマンの後半は、人の心の愚かしさと飛鳥了の正体の二つの物語を主軸としてストーリーが進んでいく。
愚かな人類への絶望を抱くと同時に込み上げる明への強い感情、自らの思う通りに運ぶ物事への疑念、違和感。そうしたものにせき立てられるように、飛鳥了は自分がサタンであると思い出してしまうのだ。
だが、本作では物凄く早い段階で飛鳥了は人ではないと明かされている。そう、すでに彼の正体は本人も明も把握済みなのだ。つまり後半で明かすべきは、デーモンらの王サタン=了という事実くらいである。その種明かしも、原作では明との対話で明本人が悟ってしまい決別する悲痛な場面であったりと色々印象深く描かれているのだが、本作ではあっさりと本人がバラす。
では本作で何が起きていたか。
了の正体を明かす必要がほぼなくなったため、後半の尺が駄々余りしたのだ。
当然である。設定改変で諸々をざっくり切り落としたのだからそうなるに決まっている。
確かに、こう言ってはなんだが了の正体はさほど物語に影響はない。デビルマンの葛藤や苦悩がメインテーマであって、了のあれこれは明の彩りの要素とも言える。
だが、人間は愚かに力を入れすぎて了絡みの全てを切って捨てたため、逆に盛大な尺余りが発生しているのである。どうしてこうなった。
そういうわけで了の細かな設定はほぼ切り捨てられていて、なんなら明への恋心すらもカットされた。登場人物も主要な面々は全員が原作由来で、かつ原作の設定をキープしつつ、一方で映画特有の新設定や描写を盛り込まれている中、飛鳥了だけはなんかもうオリキャラでよくないかといった仕上がりになっている。
例えば明を愛するが故にデビルマンにして生きながらえさせようとした、という描き方ができなくなったせいか、冒頭から明をいじめた人間の指を切り落とすなどの蛮行に及ぶ、明へ物凄く重たい友情を向ける物凄くヤバいやつとなっている。こわい。こんなヤバいやつを生み出すくらいなら、素直に恋心にしたほうがよっぽどよかったのではないだろうか。
ただまあ、ある意味人ならざるものの怖さは感じやすくなっているのでそう捨てたものではないし、ジンメンに殺されたクラスメイトは了に指切断された元いじめっ子で、明とも和解したがっていたのに……というエピソードに持って行けた点も正直悪くない。
これらを踏まえてのラストシーン、デビルマンVSサタンの戦いに決着がついた場面で、サタンもとい了が放つ「あ、明笑ってる」もわりと味わい深いアレンジだと思う。嫌いじゃない。
嫌いじゃないのだが、何故かとてつもなく釈然としなかった。これ、初見の人わかるのかな。絶対わかんねえだろうな。私だってわかんねえのに。
釈然としなかったので、私はぼんやり濁った目でクレジットタイトルを眺めることしかできなかった。出演者やスタッフたちの名前を、タブレットは再生を拒否ることなくしっかりはっきり写してみせた。そして私は思った。
結局ディーノとHARASHIMAさんってどこに出てたんだろう、と。
何故実写デビルマンに数少ない私の知っているプロレスラーが出演しているんだろう。疑問は尽きなかった。
結局何がクソなのか
まず指摘すべきは申し訳ないがメイン二人の演技力だと思う。これが著しく不足していたばかりに、物語の説得力は正直かなり削がれていた。残念、としか言いようがない。
次に何かを挙げるとすれば、それは原作要素の取捨選択の恐ろしいまでの下手くそ具合だ。上にも書いたように現代にはそぐわない描写や、映像化しにくいグロテスク・エロティック表現などが含まれた作品なのである程度の改変を要するのは確かだし、実際かなり変更を入れている。その方向性は自体は悪くはない。エピソードの作り方もそれだけを切り取ってみれば別にそこまで悪くない。明を守りたいあまりに暴走した了、その了に傷つけられつつもそれがきっかけで明と親しくなるクラスメイト、そんな彼がジンメンに食われて……という流れは先ほども書いたが嫌いじゃない。
大枠で見れば原作通りの流れだし、大枠で見ればそこまで致命的ではない。だが、枝葉末節というか、脚本を書くに際して不要と判断した細かな部分がことごとく作品の根幹に影響を及ぼしているのが致命的なのだ。確かに一つ一つはさして重大ではないし、なくても物語は普通に成り立つ。成り立つのだが、説明不足や描写不足に陥っていく。一つは細かな要素でも、積もり積もると大きなインパクトを与えるわけで、この作品はそうした諸々を容赦なくバシバシと切り捨てている。そのため、結果的に我々は大枠は同じなのに知っている話とかけ離れた何かを見せられることとなるのだ。デビルマンエアプが人伝に聞いた知識で書いた、と言われても納得できる仕上がりなのである。
最たる例は飛鳥了だろう。彼個人の物語は作品全体を通して見ると確かにあまり重要ではないのだが、重要ではないからと切って捨てるとよくわからないことになる。重要ではないからと正体を序盤でさっさと明かしたせいで、後半に生じたはずの了=サタンと発覚するシーンが全消滅したのだから。結果後半の尺余りが目立ってしまい、結果我々はだからどうしたとしか言えない人間は愚か描写を延々と浴びせられることとなる。
美樹にしてもそうだ。彼女はデビルマンとなった明の変貌に気づく最初の人物であり、人の愚かさを知りながらもそれでも人のために戦うと明に決意させた存在である。明は愚かな人類を守るためではなく、愛する一人の女性を守るためにデビルマンとして力を振るおうと決意したのだ。だが、この脚本はそうした細かな機微をすぐに捨てたがる。おかげで美樹は単なるいい子の恋人役の域を出ない。勇敢で真っ直ぐで、明に人を信じさせるだけの力も魅力も感じない、ただの舞台装置でしかないのだ。
そしてこれら無遠慮な切り捨ての影響をもっとも激しく受けているのか明だ。そもそも最初の変身シーンすらも雑に片付けたため、デビルマンという人ならざる者として生きる決意を固める描写は全くない。きっかけこそ恐怖と焦りではあったが、しっかり友の言葉を聞き人としての生を諦め、デーモンの力に飲まれず正しく人のためにあろうとする明の芯の強さがさっぱりわからない。
デーモン化しても力に飲まれて人を襲わず、うまく調伏した人間(=精神的にすごく真っ直ぐで強い)ということもあまりわからない。これは、デーモンがそもそも地球に住まう種族であったことや、他の生物や同族を殺し尽くす生き物だという設定をカットした余波だろう。確かにこれらの設定はなくてもこうして作品としては成り立ったが、おかげで説明不足に陥り人物描写の説得力も皆無になっている。
このように、必ずしも必要ではないが、ないと説得力がなくなる設定を何故かことごとく切り捨ててしまったため、何が何だかわからないままペラッペラの物語を浴びせられるハメになるのだ。
というか正直に言えばなくてもいいけど……と思えているのも原作既読だからだろう。私の脳が勝手に知っている情報でパッチワークをしているだけで、初見の人は置いていかれるのではないだろうか。
とはいえ不足は製作陣もわかっていて、だからミーコを使ってデビルマンとなる人間の精神的強さを描き、無抵抗のKONISHIKIを撃つことで人の弱さ脆さを補おうとしている。また、原作のまずい描写を削って薄味になった人の愚かしさ要素は、しつこいほど繰り返される人々の迫害シーンと、ボブサップに読ませたニュース、一般通過小林幸子で補強しようとしている。書き手にも自覚はあるのだ。説得力が足りないと。
違うそうじゃない。おかしな尺の余り方や、なんでそうなったとしか言いようのないシーンが生えた事実から見ても明らかだ。違うそうじゃない。
というかそもそもデビルマンという作品は、デーモンと人間との境目に立たされた不動明が、苦しみ葛藤しつつも戦う物語である。
見境なしに増殖し続け他の生物を滅ぼし尽くす愚かしい人間と、そんな人間を滅ぼそうとする残虐なデーモンと、両者それぞれに立場がある。人間は愚かなので滅んだほうがいいのではとも思えるし、実際緩やかに滅びに向いつつあった。だが、それでも守りたい人がいて、だから人のために戦おうとした。そういう男の話だ。
だが、この映画を見てもそういう葛藤の末の覚悟みたいな熱は伝わらない。だから言わせてほしい。
ほんとに原作読んだのかよ。
クソ映画たちとの比較
大枠は原作をなぞっているだけユアストやEVOLUTIONよりもマシでデビルマンの勝ちという印象は受ける。
ただ、下手に原作通りのストーリーラインを保っているせいでアラが目立ちすぎてかえってなんでだよと言いたくなるため印象は普通によくないのである。むしろ半端に原作を感じるせいで、他作品よりも強い気持ちで原作読んだ……?と言いたくなってしまう。ある意味ではこの作品が一番原作を蔑ろにしているような気持ちにすらなる。何を読んだらこうなるんだよ。しかも普通に面白くない。その上演技は残念で、見ていてしんどい仕上がりのくせに一般通過小林幸子やボブサップなど妙に面白いものをねじ込んでくる。
そう考えると、原作に沿わせる意思はないとはっきり突き放したユアストはそこそこ潔いのではないだろうか。というか私は別にあのオチも好きである。オチで変な方向に行ってくれてむしろワクワクした。私にとってドラクエは現実に向き合う勇気をくれた作品なので、現実世界とリンクしたオチは結構嬉しかったのだ。とはいえ、ドラクエ部分は本当に面白くなく、とにかくワクワクしなかったのでその点は普通にマイナスである。
これは余談だが、あのオチはドラクエ5ではなく6ベースの作品でやられてたら拍手喝采を浴びせていたと今でも思っている。ドラクエ6は、都合がよくて優しい夢から目覚め、立ち向かわなかればならない現実と向き合った主人公の姿が描かれているのだ。親和性は高い。
などと書いて思ったが、虚構と現実入り混じる6の世界が好きだからこそ、虚構と現実を混ぜたユアストのオチも好きなのかもしれない。
まあ、とはいえこの辺りは個人の趣味が如実に出るだろう。私はユアストくらい突っぱねてくれたほうが気分はよかった。突っぱねられて嫌って人はもちろん多いだろうし、嫌な気持ちはよくわかる。わかるが私はこちらのタイプのほうがいっそ心地よかった。
で、こうなると何もかもの観点から終わっているのがEVOLUTIONということになる。ユアストくらい開き直ってうるせーな別物だよ、と言ってくれるわけでもなく、デビルマンほど原作に沿わせようとしているわけでもなく、ただただ何がなんなのかよくわからんものを見せられているという点での苦痛度はダントツだろう。我々はドラゴンボールではない何かをひたすら浴びせられることとなる。デビルマンはもちろんのこと、結末で全部ひっくり返したユアストですら、ひっくり返すまでは原作の姿を見せてくれる。が、こいつにその片鱗はほとんどない。出てくる単語が同じだけの別物である。なんなんだこれは。
ただ、一つだけ救いがあるとすればデビルマンやユアストがどう足掻いても原作作品を離れられないストーリーだったのに対して、EVOLUTIONは唯一ドラゴンボール要素を全て取っ払えばオリジナル作品としても成立するという点である。こいつのいいところは、あまりにも原作要素が少ないために、むしろドラゴンボールとして見なければあんま面白くないB級映画くらいにはなれる点にある。
そう、ドラゴンボールだと思うから頭が痛いのだ。もう忘れてしまおう、鳥山明原作の漫画のことなんて。忘れてしまおう。
孫悟空はあの孫悟空ではないし、ヤムチャは金髪髭面の男性だ。同名の別人なのだ。我々の知っている彼らではない。そうやってオリジナル作品だと思うことで、とんでもクソ映画はあんま面白くないけどまあ見られる映画くらいに進化する。なるのだ、別物に。いっそドラゴンボールじゃなきゃよかったのにね。
と、このように世の中でクソ映画と呼ばれるものはどれもみんな違ってみんなクソだし、みんな違ってみんなそこそこなのだ。褒められる部分もあるし、最悪な部分もある。100%悪いわけではない。というか100%悪くないからこそこんなに色々言われるのだ。
ところで、この私をして馬鹿らしかったな……と言わしめた映画がある。『大怪獣のあとしまつ』だ。
EVOLUTIONに対してドラゴンボールであることは忘れようと言ったが、世の中には原作があるからこそ貶され、原作があるからこそこうして擁護できるケースがあるのだと痛感した。あの作品だけは、本当に虚無感に襲われた。
そういう意味では、デビルマンはまだ恵まれている。
以上。
余談
フォロワーが8年ほど前にデビルマン上映会を敢行しようとした際、Blu-rayプレイヤーがディスクに対応しておらず再生ができなかったことがあったらしい。(デビルディスクは非対応)
今回、デビルマン視聴に際してはプリンセスチュチュ全26話をほぼ休まずぶっ通しで再生し視聴したタブレットを使用したが、再三書いた通り今回はアホほど再生が止まった。
この世の再生機器は皆デビルマンを拒むらしい。
今度こそ以上です。